公開日 : 2020/03/11

平洲記念館

施設の正式名称:東海市立平洲記念館・郷土資料館
施設の連絡先:052-604-4141
施設の形:市営博物館
運営母体:東海市 教育委員会 社会教育課
運営母体の連絡先:052-603-2211(代)
所有者:東海市
料金体系:無料
イヤホンガイド:
予約の必要:無(団体の場合は有)
※ 掲載当時と情報が異なっている場合がありますので、開館時間休館日イベント等、正確な最新情報は公式URLをご覧ください

この施設の設立趣旨

「東海市出身の江戸時代の儒学者・細井平洲(ほそいへいしゅう)先生の記念館です。平洲先生の業績や、書画等の作品を中心に展示しています。また、館内の1室・郷土資料館には、知多式製塩土器をはじめとする東海市の考古資料や民具等を展示しています。」
(平洲記念館・郷土資料館 公式サイト より抜粋)


以下、interviewee:立松様(平洲記念館 館長)、interviewer:木原(フィールドアーカイヴ 代表)

質問1「この記念館ができたきっかけ、なぜここに建てられたのかを教えてください」

 東海市はもともと上野町、横須賀町という二つの町でしたが、1969(昭和44)年に合併しました。

 あわせて8万人くらいの市となったのですが、この人口数は、1960(昭和35)年に両町の地先に設立された東海製鉄所の本格的な稼働によって、倍増したものです。
 以前の人口が3万4千人ほどでしたから、4万人以上の方が日本中から引っ越してみえたのです。よそから来た人が多いぐらいになったのです。

 当時、日本各地で大きな炭鉱が閉じて、その方々の受け入れ先になったり、釜石などは溶鉱炉を閉じてしまいましたので、お父さんの単身出稼ぎというようなことではなく、先祖の仏壇もって、家族ごと、こちらに引越してきたりと、人々の大移動がありました。

 その方々が「来たはいいんだけど、いったいここはどこなんだ?」となった。
 そこで「ここは東海市といいまして、こういうところなんです」ということを示すため、市民達の ”よりどころ” を作ろうということがきっかけで、社会教育施設としてここが建てられました。

 メインが細井平洲。
 平洲先生の生誕の地ですよ、といえば皆に通じたからです。

 明治から昭和の修身(道徳)の教科書に、細井平洲先生が上杉鷹山公との関係で載っていて、戦前は日本中の人が知ってました。
 だから、館が出来た頃、訪ねて見える方達、その時の御老人、懐かしいといって見ていかれました。

なぜこの場所に建てられたのですか

 どこに作るかとなったときに、平洲先生のゆかりの地にしようとなりました。

 この場所は平洲先生の生まれた地、平島村の氏神様の境内地なんです。
 じゃあここの境内地なんかどうだとなって、もともと鎮守の森だったのを切り拓いていいですよとなって、なおかつここは、旧里碑もあった。
 「細井平洲先生旧里碑」っていうのが、平洲先生の没後7回忌に作ろまいといって、尾張の明倫堂の先生たちが計画して、ここに建てられたんです。
 だから江戸時代の人達も、1807(文化4)年に平洲先生の顕彰碑を建てた時に、この土地を選んだわけです。
 そういうこともあり、ここに決まりました。

質問2「常設展示に際し、他の記念館にはないユニークな品や見せ方などは何ですか」

ここは平洲記念館でもあり、郷土資料館でもあるのですか

 建物はひとつなのですが、ここは「東海市立 平洲記念館」と「東海市立 郷土資料館」ということで、市の条例で作ってあります。
 具体的な区分けは特にないですが、入って左手の一室が「郷土資料館」、正面の一室が「平洲記念館」となっており、あとの平洲ホールや講義室は共用スペースとなっています。

 趣旨が違うことになっているものですから、用途によって名称を変えています。
 東海市の社会教育的施設としては、この施設だけになります。

施設が森の中にあり、ユニークな場所ですね

 出来た当時はどこにあるんだと、今もナビで来る人は難儀してくる人もいます。
 通りに面してなく、離れていて静かなもんで、駐車場まで来ても館が見えない。

 今はバスが来るルートもあります。
 その他に名所パネルを整備してあるので、それを目指してウォーキングでやって見える方も増えました。

 延々訪ねて見える方は、この方がいいという方もいます。
 街中にあるよりも、鎮守の森の中にあるのがいいという方がある。

 興味を持った方が平洲記念館の存在を知り、機会があったら、でお見えになることが多いですね。

どんな方が興味を持たれて平洲記念館にいらっしゃるのでしょうか

 例えば、上杉鷹山公が企業経営の話として以前脚光を浴びたことがあります。

 トップランナーであった日本が落ちた時、学ぶべき先頭集団がいない。
 それで振り返って、自分たちをここまで培ってくれた歴史の流れの中で、こういう風な似たようなことがあったはずだと。
 その時にだれがどうしたんだろうとなったわけです。

 上杉鷹山が疲弊した藩を一代で立て直した、その方の先生が細井平洲だと興味を持たれ、来られましたね。

 今も日本全国からいらしてみえます。
 出張の間をぬって慌てていらっしゃる方などもいます。

常設展示品はどうやって集めたのですか

 細井平洲先生を古くから顕彰していたものですから、役場や学校でいろんな資料を持っていました。
 それらを展示スペースができたので置いたのが最初です。

 あと、今は床の間を作らないので、掛け軸がいらない家庭が多い。
 家に伝わっていたものをくださったりして、現在、掛軸資料は100点以上あります。

 郷土資料館の資料は、大きな倉庫を持っていて、そこに入れてあるんですけれども、正直、長持ちとか農機具とかは重なっちゃうので、いまはお断りすることが多いんですけれども、文書・記録などの書き物はもらってきます。

 心配しているのは、文書・記録はいまのわれわれでは読めないので、捨てられちゃっているんではないかということです。
 地域の方たちにそんなに働きかけ募集をかけているわけではないけれど、小さいながらこういう館があるというのは大きいと思います。

質問3「開館当初の見せ方から変化した部分はありますか、もしあればなぜ変化させましたか」

<アーカイヴインタビュー目次>

 第1回 世田谷区立 平和資料館
 第2回 川崎市平和館
 第3回 蘆花記念館
 第4回 東京メガネミュージアム
 第5回 世田谷文学館
 第6回 下町風俗資料館
 第7回 たばこと塩の博物館
 第8回 平洲記念館