公開日 : 2017/09/03 | 更新日 : 2017/09/06

それぞれの母親

父は、自分の母親(私にとっての祖母)について著書『ソニー技術の秘密』ではほとんど語っていなくて、本人から聞いた覚えもなかったのですが、父自身が書いた未出版の子供向けの自伝にかなり多く記載してくれていました。
祖母に関しては、そこからの抜粋が主です。
ちょっとややこしいのですが、母=私の母、父の母親=私の祖母、です。

私の母 | 父の母親 私の母
父の母親

私の母

どんな人か

周りの人たちが口を揃えて言う母の印象は「バイタリティに溢れた人!」です。

確かに子供の私から見ても、母は行動力に溢れ、常に目標を定め、目標に向かって頑張っている印象があります。
毎日何かしらのイベントを入れていて、電話をしても「今から映画を見に行く」とか「朝から電車で〇〇に行っている」など、出かけていることが多いです。

ちなみに、アイキャッチ画像は、ペルーのマチュピチュで、母が旅行の際に撮った写真です。

その他に子供からみた母の印象としては、「研究者・探究者」それから「語り部」ですね。

元祖「リケジョ」

母は、終戦に小学1年生で、終戦に20歳だった父とは12歳年が離れています。

母の母親(私の祖母)が徳島生まれの神戸育ちという、海の人、ハイカラな人で、常に綺麗な帽子をかぶり、同系色のスーツを着こなして、見た目も性格も生活も日本人離れしている人だったのですが、母も相当ハイカラです。

考え方が当時の女性達の数歩、数百歩先をいっていたと思います。
人の事は言えませんが、周りのほとんどの女子と話合わなかっただろうなぁ笑

当時は女性が4年大学に行くというのはまだまだ珍しい時代だったのですが、早稲田大学の、それも理系、応用物理科に現役で合格し、周りは浪人して入った年上の男性が多い状態で4年間唯一の女子として過ごしたそうです。

その後、早稲田大学から理化学研究所に、女子研究者第一号として採用されて、半導体研究室にも女性研究者第一号として入ったという、元祖「リケジョ」です。

このように相当優秀だったわけですが、男性に頼る人生は嫌だからという強い思いがあったようで、そういう意味でも、ハイカラさんでした。

根っからの研究者・探究者

研究者・探究者の面としては、母はこれだ!と思うと、とことん調べ上げるところがあります。
私もリサーチャー気質なのですが、あの調査力と行動力にはとてもとてもかなわないです。

すごいなと思うのが、単に調べ上げるだけではなく、実際にその組織に入り込み、気づくとその組織の中心人物と仲良くなっていたり、そこの幹部になっていたり、最高位の資格を取ったりしているのです。

今ほどスピリチュアルな世界が一般的ではなかった数十年前から、母は「目に見える世界以外の精神世界」に強い関心を持ち、あらゆるものを試して研究しつくしていました。

母が面白いのは、深く入り込みながらも、あくまで研究者としての意識は崩さず、実は距離を置いているところ。
一定の成果を感じた後はスッと別の研究対象に移るのです。

そんなこんなで、そうなったきっかけだった私も、当時、一緒になって心理学やらスピリチュアルやらをあれこれ巡り歩きました。
そのあたりを語るだけで100話分くらいあり、別のコーナーができてしまいます笑。
またそれは別の機会で。

母は翻訳家として、エドガー・ケイシーディーパック・チョプラダマヌールと、数冊スピリチュアルな本を翻訳しています。

単に英語から日本語にするのではなく、それぞれの世界観、背景をしっかり研究して訳しているので、どの本も読みやすいと思います。

はたからみていると、もうそれだけ研究し尽くしたら、自ら本が書けるくらいになっているだろうに、と思ってしまいますが、そこはなぜか謙虚で、表に出たがらないです。

そういう意味でも「研究者・探究者」だと思います。

語り部

私は、母曰く、10代に起きた手術の麻酔事故により、記憶に問題があるそうです。

確かに、ものを覚えておくのが非常に苦手で、人の顔や名前が申し訳ないほど覚えられず、学校でいつも会う人にスーパーで会ったり、お店の制服姿で覚えている人が私服姿で声をかけてきても、にっこり挨拶しながら心の中で「どなただろう?」と必死に思い出そうとするくらい、記憶力に難ありです。

そんな私が一番苦手にしているのが、過去のことで、実のところ20歳より前はほとんど記憶がない状態です。
それを補って余りあるのが母の記憶力で、私の記憶の多くは、母が語り部のように何度も話してくれた思い出話だったりします。

このコーナーも、これから1歳の頃、2歳の頃と続いていきますが、その記述の多くが母が何度も語ってくれたことをまとめることになるかと思います。


母に関しては、料理だったり遊びだったりと、もっとたくさん書きたいことがあるのですが、今後このコーナーの中で小出しに書いていこうと思います。

父の母親

どんな人だったか

父の母親、つまり私の祖母は、私が小さい頃に亡くなってしまっていて、私との思い出は全くないのですが、竹久夢二が描いていたような少しぽーっとした雰囲気の女性だった記憶があります。

ちゃんと聞いたことがなかったからというのもありますが、祖母の名前が花子というのだと、父の自伝で初めて知りました。
ちなみに祖父の名前は信和といい、父も兄達も「信」の字がついています。

父の母親の父、つまり私の曽祖父は外交官で、ロシア領事館にいたため、父の母親は学生の頃、夏休みの半分はロシアに行っていたそうです。
さらっと書いていますが、明治時代が始まってすぐくらいの話ですよね。
そんな時代に外交官だなんて実は結構な人物だったりするのかもしれないのですが、氏名も知らず、残念ながらその辺りは調べられませんでした。

父は、幼少期に海外生活が多かったために、父と母をパパ、ママと呼んでいたとのこと。
ちなみに私も父と母のことはパパ、ママと呼んでいました。
1930年代の初め頃にパパ、ママと呼ぶ人は少なく、とても珍しかったようです。

つまり、時代のわりに父も母もハイカラだったわけで、そういう意味では気が合ったのではないかと思います。

天才に育てる

今でこそ、親は子供のことを叱って育てるよりも、褒めて育てるのが良いとされつつありますが、父の母親は、父に対して褒めるを通り越して、信仰するくらいの勢いで子供の才能を高く評価していたようです。

それほど自分のことを信じてくれて嬉しくない子供はいないですよね。

父は井深大さんが自分の能力を信じきってくれていたから、もっと喜んでもらいたいと力を出せたと語っていましたが、父の母親もそんな風に信じきっていたところがあったようで、父はそんな母親に対しても、もっと喜んでもらいたいと頑張っていたのだと思います。

そうすればいいとわかってはいても、今子供を持つ親になった身として、そこまで子供の才能を信じきるのってなかなか難しく、つい口や手を出して大人の目線で手伝ってしまいたくなります。

もっと子供自身の力を心から信じて、本人の持っている能力をすくすく伸ばしてあげたいと強く思います。