公開日 : 2017/10/10

22歳:異端の面白さに目覚める|鍵盤模写電信機とワイヤーレコーダー

22歳は、私は大学4年生だったのに対し、父は入社2年目です。
その頃の私は今思うと、世の中の正しいと言われていることに懐疑的になっていて、挑戦的でかなり暴走していました。
父は、盛田さんと自社製品を調査する旅に出回ったり、徐々に能力を発揮していた頃です。

私(1995年/平成7年) | 父(1948年/昭和23年) 私(1995年/平成7年)
父(1948年/昭和23年)

私(1995年/平成7年)

正しいと信じていたことが実は正しいとは限らない!?

大学に入るまでの私は、世の中の大人、特にテレビや書物や先生の言うことに対し、全く疑うこともなく、そういうものなんだろうと思って生きていました。

知的好奇心が爆発し、あらゆる書物を読むようになってからも、授業を放棄するわけでもなく素直に楽しく聞いていました。
その当時、ちょうど岩波文庫が「エッセンシャル100撰」という撰集企画をしていて、薄紫色の帯がとても綺麗で、おすすめの100冊をすべて買いそろえて読みふけったり。

当時好きだった一冊。岩波文庫はほとんど絶版にならないのです。素晴らしい!

3年生になって、授業で教えてくれない部分にまで足を踏み込んだ際にも、そこまで懐疑的になっていたわけではなく、純粋に好奇心のままに文献を読んでいました。

ただ、色々な文献を読み進めていくうちに、国学を研究することはどうやら今の時代では異端なようで、正統な扱われ方をしていないようだ、と気づき、同時に、正統な扱われ方をしている日本言語学は、どうやら西洋言語学の考え方を無理に当てはめている学問なようだ、とも気づいてきました。

これにはきっと意味があるのだろうと、あれこれ調べてみたのですが、どうにも腑に落ちない。
先生に質問しても、まともな答えが返ってこない。
まるで日本よりも西洋の方が文明も学問も進んでいるから参考にすべきといわんばかりで、もしかして江戸時代から存在していたすべての日本独自の学問が今では異端扱いされているの??と初めて「正統な学問」というものに疑問を感じたのです。

そこにきて、日本の偉人たちのえもいわれぬ凄み、日本古来の世界観を学び何か大事な神髄を会得したかのような達観ぶりを知るにつけ、異端といわれようとかまわない、もっと知りたい!となっていきました。

そして、ちゃんと理論立てて説明できれば、異端と言われなくなり、正統に評価してもらえるのでは?と考えたのです。

… 今考えると、発想がちょっと暴走していますね。
きちんと勉強せずに、正統とされている学問は間違っている、異端扱いされているものこそ本来正統なのだ!という勝手な思い込みが感じられて、かなり恥ずかしいですが、当時は本気でそう思っていました。

そんな気持ちのままで突き進んでしまったため、卒業論文も、万葉集を使って普遍的な日本語を探し出す方法を独自で考え出した研究論文という形で書きました。

異端、裏、隠されているものたちの存在

そんな学問的な異端とは別に、その頃になると、正統で表の世の中とは違う、様々な異端で裏の世の中も多く知るようになっていました。

江戸時代から昭和初期にかけての復古神道や国学について調べていくと、昔の日本の精神世界に足を踏み入れることになるわけで、村々の祭りや踊りや掟や風習といった話から徐々に村八分だったり夜這いだったりこけしだったりという話につながり、祭りの本来の目的だったり、風習の真の意味だったりを、柳田國男などの民俗学者の本を通して知っていったのです。

さらには春画、遊郭、赤線などの世界から、芸能の成り立ち、食肉や皮革等を取り扱う専門の方々がいらしたこと、病の方々を隔離する場所があったこと、そういった方々に対する差別が存在すること。

すべて大学に入るまで全く知らない世界で、そういう世界があることに驚愕しました。
そして、それらの事実についてもっともっと深く知りたいと思ったのです。

資料を買い集めたり、資料館に行ってみたり、今思うと無謀なことだったのですが、可能かなぎり現場に行ってみたりしていました。

その傾向はその後どんどん加速し、怪奇的、猟奇的、退廃的なジャンルにまで興味が広がっていきました。

純粋な知的好奇心も、度が過ぎると危険になっていくのだという悪い見本ですね。

就職活動、逃げる。

大学4年生といえば、就職活動にも力を入れているべき時期だったのですが、引き続き大学院で日本言語学を学びたいという思いや、図書館司書になりたいという思いもあり、どこかの会社に就職するという気持ちはかなり薄かったです。

なにより、私は団塊ジュニアと言われている年代で、とにかく人が多く、東京ドームでの集団就職活動など、想像しただけでも怖気づいてしまって、戦う前から負けを認めてしまっているところがありました。

慣れないリクルートスーツに身を固め、何十社も面接に行き、自己アピールをする自分など全く想像もできず、さらに不採用通知を受け続けたら心が折れてしまう、と、結局1社も受けずじまいでした。

父(1948年/昭和23年)

盛田昭夫さんとの出会い

父は入社当初、ソニー創業者の一人である盛田昭夫さんとは、たまに役員室で見かける程度で、話をするチャンスはほとんどなかったようです。
しかし、製作を担当していた鍵盤模写電信機の、説明や販売の陣頭指揮を執っていたのが盛田さんだったため、製品が完成してからは、仕事を通じて会う機会が多くなりました。

盛田さんが書いた鍵盤模写電信機の通信実験のデータ。確かに几帳面!

父は、盛田さんに対し、第一印象として、大変几帳面な人だな、と感じたそうです。

例えば通信実験をするときでも、実験計画書のようなものを持ちながら、この結果なら次はこれをテストしよう、駄目ならこちらを、と次々に実験を進めていく人でした。

この年、鍵盤模写電信機の遠隔通信テストが名古屋で行われました。
父が出張した際に、初めて名古屋の白壁町の盛田家の本宅に呼ばれ、泊めてもらい、お父様の九左衛門氏とお母様にもお目にかかったそうです。

盛田さんの部屋にも呼ばれて、学生時代の話を聞きました。
部屋の押し入れの一つは道具入れでしたが、鋸、鉋、かなづち、ドライバー、その他すべてが壁にかけてありました。
そこまではよいのですが、なんと壁に道具のシルエットが書いてあったそうです。
これなら道具をかたづけるのが楽ですし、なくしません。

なるほど盛田さんは几帳面な人だな、とまた感心をしたそうです。

ちなみに、娘の私から言わせてもらうと、父もものすっごい几帳面な人でした。
会社でも家でも父の几帳面エピソードはいくつもあるので、そのうちまとめて書こうと思います。

才能の片鱗

ある日のこと、父はこの鍵盤模写電信機は海外ではなにに使われているのか疑問に思い、盛田さんに尋ねると、「通信社が株や経済市況を流しているそうだよ」ということでした。
それなら短波で信号が受けられるのではないかと思い、手すきのときに自分で作った無線受信機を持ってきて、簡単なアンテナ線を張り、ダイアルを回して適当にビート音を聞いていました。

父は、鍵盤模写電信機の作り出す信号を、そのまま電波を変調したらこんな音に聞こえるのではないか、と想像できたそうです。
そして、その不思議な能力で見事に音を探り出し、受信機から海外の通信をキャッチすることができたのです。

さっそく朝日新聞社に連絡し、井深さんと樋口さんのお供をしてデモをすることになり、実際に新聞社で電波を受信してサンフランシスコからの電文を印字することに成功しました。
1948年11月のことでした。
その後、朝日新聞社が買ってくれたかどうかは不明だそうですが、それから東通工と朝日新聞社との親しい関係が続くようになりました。

このように、多くの関係者が総力を傾注して完成させた鍵盤模写電信機システムでしたが、その後は注文も少なく、製造販売を断念したようです。

ソニーも、初期の頃は何を主軸にするか、試行錯誤し手探り状態が続いていたのですね。

ワイヤー・レコーダーに着手

この当時、会社トップの井深さんや盛田さんは、鍵盤模写電信機のような使用者が限定される機械ではなく、もっと大衆に直結した商品を手がけたいと思っていました。
そんな時、たまたまおつきあいのあった日本電気の多田正信さんが持ってきた『鋼線式磁気録音機(ワイヤー・レコーダー)』を見るなり、二人は「我々の次の商品はこれだ!」と決心したのです。

早速、父が呼び出され、「君、この録音機を研究してくれないか」と機械を手渡しました。

父いわく、当時の父はどの部課にも属さず、仕事を命令されたり、報告をしたり相談などをする直接の上司はいない状態で、たった一人で働いていたそうです。
井深さんや盛田さんから、たいてい直接声をかけられましたし、「機械が働きました」、「できました」と報告に行った覚えがあるとのことでした。
録音機を直接手渡された際にも、「これは困ったことになったな」と思ったような記憶はまったくなく、むしろ喜んで、自発的に、次から次へと機械の内容を把握しながら解析していきました。

録音機はとても重くて油まみれだったのですが、機構の複雑さ、動作の面白さ、さらに記録の電気回路の斬新さに、父はぞっこん惚れ込みました。

機構部を調べてみても、疑問に思うようなこともなく、また回路図から配線部分をたどりながら動作を確認して、すべてを理解することができた父は、主要ポイントの電圧、動作波形と増幅度などをノートに記録するといった作業を含め、数日で研究し終えてしまいました。

海外製のキットを組み立てる

その頃、会社トップの人達は、父達従業員には想像もつかないほどの努力と苦労を重ねて、会社の経営にあたっていました。
そして、一度決めたら目的のためには八方に手を広げて情報を集め、必要なものは率先して手に入れようという実行力があったのです。

父が数日かけてワイヤー・レコーダーを調べている間に、盛田さんはアメリカ人の友人を通してウェブスター・シカゴ社のワイヤー・レコーダーのキットを輸入していました。

キットということなので、おそらくこれを組み立てたのだと思います。

そして、届くとさっそく父にキットを手渡し、「君、これを組み立てて働かせてくれよ」といってきたのです。

父は再び一人でコツコツと、勘を働かせてキットを組み上げていくことになります。

なぜ一人だったかというと、当時の社内には磁気記録のことを知る人が他にいなくて、わからないことがあっても自分で解決する以外なかったのと、周りの人々はそれぞれ仕事を抱えていて、邪魔をすることもできないほど働いていたので、人を頼りにすることは、ほとんど考えたことがなかったそうです。

ノウハウの蓄積

ワイヤー・レコーダーのキットは、ワイヤーを駆動するメカ部品だけなので、電気部品は自作しなければなりませんでした。

父は早速神田に行って、シャーシ、スイッチ、トランス、真空管、抵抗コンデンサーなどを買い揃えてきました。すぐに組み立て配線をして調整をしましたが、高周波の発信器の周波数とパワーが適合していないようなので、発信コイルの巻き替えを何度か試し、やっと記録再生ができるようになりました。

それから後は着々と性能が上がりましたが、回路の配線の難しさを嫌というほど味わったのは、これが初めてでした。
また、初めてのこととはいえ、レコーダーは、ラジオとは比較にならないほどの、想像を超えた現象や問題を抱えていました。

まず第一の難関は、増幅度が高いために音声増幅回路が発振してしまうこと。
高い超音波以上での発振は、回路中の広域ブーストの等価回路が原因でした。
また別の発振の原因は、記録と再生を切り替えるスイッチの構造や配線方法の不備による誘導的な発振で、これはシールド板つきの特別注文のロータリースイッチを使うことで解決しました。

さらに、発振以外の誘導ノイズとして厄介な問題は、50または60サイクルの電源誘導でした。
これはヘッドが電源トランスからの漏洩磁界を拾ってしまう問題と、それとは別にヘッドからの配線が漏洩磁界を拾ってしまう問題でした。

その他に思いもよらないノイズは、真空管が機械的に発生する「カーン、カーン」と鳴る金属音でした。
これも防振ゴムで真空管を宙吊りにして、音の発生を防ぐ構造で解決しました。

このような問題点は、その後の磁気記録機の開発にも繋がる重要な経験でしたから、早い段階で身につけることができたのは父や会社にとって本当に幸運でした。

このノウハウのおかげで、テープレコーダー、ビデオレコーダーの開発の時期を早めることに繋がり、父が勤める東京通信工業は、他社の追随を許さぬ地位を築くことができたのです。