公開日 : 2017/09/28 | 更新日 : 2017/10/10

21歳:昔の日本の面白さに目覚める|東通工に入社

21歳は、私は大学3年生だったのに対し、父は専門部を卒業し会社に入社した年齢です。
話の元にした『ソニー技術の秘密』には、当時の上司や同僚の名前がたくさん書いてあり、より詳しく当時の様子がわかるのですが、父の初仕事っぷりと入社当時の会社の様子を語るにとどめました。

私(1994年/平成6年) | 父(1947年/昭和22年) 私(1994年/平成6年)
父(1947年/昭和22年)

私(1994年/平成6年)

父譲り?専攻にかかわらず聴講しまくる日々

3年生になった私は、授業など学内ではまったく群れずにいつも一人で自由に行動していました。

ある時は学内図書館の秘蔵書を読みあさり、ある時は学校探検。
父もしていた「興味のある授業の聴講」を、私もよくしていました。

私は日本語日本文学科だったのですが、文化史学科にも興味があり、歴史学を中心に美術史学や哲学・思想史学、宗教学・宗教史学など文化史の授業を聴講しました。

2年生の夏には、文化史学科対象の「文化史学特別演習」という名の22日間もある海外研修旅行についていきました。
単なる観光ではなく文化史の視点で、歴史あるヨーロッパの美術館、宗教施設を巡ることができたのは今思い返すと素晴らしい体験でした。

合気道にのめり込む

大学1年の時から4年間、私は大学内の合気道部に入っていました。
初段をとって大学を卒業してからも本部道場に通い続け、越年稽古にも行くくらい、一時期はのめり込んでいました。

合気道部に入ろうと思ったきっかけは、単純に道着が格好いい!からでした。
でも続けていくうちに、その奥深さにどんどん魅了されていきました。

特に魅了されたのが、合気道の開祖、植芝盛平翁。
彼は、1883年(明治16年)12月14日生まれで、1969年(昭和44年)4月26日に亡くなるまで、合気道の開祖として道を極めた方なのですが、知れば知るほど只者ではない方で、もっと知りたいと御本人に関わる本や資料を調べあげ、買いあさりました。

当時は、ネットで調べたり購入したりすることもできず、ひたすら図書館で調べ、すでに絶版した本も多かったため、古本屋を探しまわった記憶があります。

私が在籍していた当時は、合気道本部道場は、どうも肉体的な面ばかりを重視していて、精神的な面など存在しないかのような振舞いをしていたのがちょっと残念ではありました。

日本発祥の言霊をはじめとした神道系の世界観が奥深くて、体の動きとも密接に関係しているので、そちらもセットで教えてほしいなと思っていました。
あまりそれを前面に出すと引いてしまう方もいるからなのかなぁ。
「君の名は」があれだけ皆に受け入れられた今なら、もっと素直に良さがわかるのではないかと思ったりしています。

植芝盛平翁に関して、2017年現在、検索してみたところ、Youtubeに御本人の動画は載っているし、まだ絶版のままの本もありますが、いくつかは復刊していましたし、刊行している本の一覧を見ることもできました。
あらためて素晴らしい時代なんです、今は!


素晴らしいついでに、植芝盛平翁の動画もシェアしておきます。

植芝盛平、南方熊楠、からの国学。

植芝盛平翁と並んでこの頃、私が心酔していたのは、南方熊楠です。

最初にこの方を知ったのは、子供向けの伝記からでした。
私は幼いころから伝記を読むのが大好きで、あらゆる人物伝を読んでいましたが、とにかく桁外れの豪快な人で、印象に残っていました。

大学に入ってから、より詳細に熊楠について書いてある文献に出会うことにより、さらに興味を持ちました。

この方は、相当な博識で海外暮しが13年ほどあり、今でも著名な雑誌Natureに何度も研究論文が掲載されるほどのグローバルな人物だったのですが、日本に興味がないかというと全くそんなことはなく、神道にも精通していて、神宿る森が壊されることに憤り、反対運動を起こしているのです。

そして、その反対運動に共感し参加していたのが、植芝盛平翁そのひと。
実はこのお二人、同郷で、お墓も同じお寺にあります。
あれほど飛び抜けてすごい方々がほぼ同時期に同じ場所にいて交流していたというのが本当に感動ものです。

ちなみに、お二人が精通されていたのは、一般的な神道とはちょっと違う、古神道と呼ばれるものです。
江戸時代の復古神道の流れを汲み、幕末から明治にかけて成立した神道系新宗教運動で、仏教、儒教、道教、渡来以前の日本の宗教を理想としています。

このお二人の凄さに興味を持つと、当然、彼らが影響を受けていた「古神道」とは何ぞや?となっていきます。
大学3年生の私が、古神道について調べ、国学に辿りつくのにそれほど時間はかかりませんでした。
そして、大学で習う一般的な言語学から、徐々に日本古来の言語学である国学に興味が移っていったのでした。

江戸時代中期から昭和初期は黄金期!

国学の基礎固めをした賀茂真淵、本居宣長から、南方熊楠、植芝盛平へと、脈々と復古神道的な意識が受け継がれ、研究され、花開いた時代は私にとって、まさに黄金期です。

あの世界観を究めようとした人達が結果的にあれだけ偉大なことを成し遂げられたのですから、知識の浅い私ながら、「さらにきちんと研究すれば誰にでも有益で普遍的な真理が見つかるのでは?」と想像でき、当時はワクワクしながら調べていました。

戦後、国学や古神道が曲解され否定されてしまったのが本当に残念でならず、花開いた後も素直にすくすく育って、もっと一般に考えが理解され広がっていたら、どんな世界になっていたのかなと考えてみたりもしました。

1994年に私が大学内で読みふけっていた書籍たち。あらためて見ると、面白いですね笑

ただ、調べていくうちに、現代語訳版しかなかったり、原書そのままではない資料ばかりで、原書を探してみたものの、取り扱い注意だったり、一部しか見られなかったりと、歯がゆい思いを随分しました。その辺はおそらく今も変わらないのでは。

古事記をはじめ、江戸時代の国学者達の書いた原本そのままをきちんと複製、復刊し、誰でも気軽に安価に手に入れることができ、自宅で読め、研究できるようにするのが、当時からの私の密かな夢、なのです。

父(1947年/昭和22年)

新入社員第一号!

父が昭和22年4月に、東京通信工業(東通工)へ新入社員第一号として入社した時、最初の仕事は、超短波交流電圧測定用の真空管電圧計(バルボル)の感度調節のための抵抗値の決定と、それに近い抵抗を探し出したり、なければ二個の抵抗を組み合わせて作り、それをハンダづけして組み上げることでした。

この真空管電圧計は、東通工の前身、東京通信研究所時代に完成した、日本の測定器では世界に誇りうるものの一つと言われていたものです。
感度が高くて精密であり、社内の開発や試作にも重宝し使用されていました。

こちらが真空管電圧計(銀座ソニービル展示)。もしかしたら、父がハンダづけして組み上げた品かもしれませんね。

ちなみに東京通信研究所は、昭和20年10月頃から、日本橋白木屋デパートの三階の小部屋で活動していました。
真空管電圧計は研究所の本格的製品、記念すべき第一号であり、逓信省(現在の日本郵便グループ)や鉄道省(現在の国土交通省)あたりから大量注文を受けるようになり、これを機に会社組織にすることになり、昭和21年5月7日に東通工が設立されたというわけです。(このあたりの詳しい話は盛田昭夫著『学歴無用論』「ソニーの歩み」に記載されています)

この他に、NHKより短波中継用受信機の改造も受注し、社内の人達は、100セット以上の受信用コイルの改造を黙々とこなしていました。
父も学生時代にアルバイトで短波受信機を作っていたので、その作業には非常に興味があったようですが、入社ホヤホヤの新米には、商品に手を触れさせてもらえなくて、残念だったとのことです。

有名なこちらの写真も実は他社の製品を修理している場面だそうです。右から2人目が木原信敏。

その他、逓信省から二号調音器を受注していて、この技術から発展したパワーマイク(拡声器)が、もう一つの商品として開発され、父は工場のなかで、毎日アーアーとスピーカーを鳴らしながら調整していました。

そのうちに、国鉄(今のJR)の電車の車内放送にパワーマイクが使われるようになり、山手線に乗ると、ときどき放送しているのを耳にするようになり、さらに選挙運動がはなやかになると、このマイクがよく使われるようになっていったそうです。

 

このように、父が入社した東通工は、初期の頃からすでにNHKや官庁などと仕事をしており、小さいながらも実力のある会社だったということがわかりますが、まだ、受注生産や他社製品の修理が主でした。
会社トップの人達はこの頃から、このままではいけない、受注して作る一方ではなく、ゆくゆくは自社製品、市販品を作って売り出したいと考えていたようです。

本格的なメカの仕事、スタート。

会社では、父の入社する少し前から、鍵盤模写電信機の開発を進めていました。
アルファベット文字の電送機のことで、1文字を5×7のドットに分解して送り、それを電話または電波で受信してから、印字機でテープ上に文字を再現するシステムです。
送信機と受信機の二種類の組になっていました。

父は入社後三ヶ月ほどで、この鍵盤模写電信機の組み立てと調整の仕事を任されました。

こちらが鍵盤模写電信機(銀座ソニービル展示)。父が苦心して組み立てた品かもしれません。

本格的なメカの仕事を始めることになって、大喜びでしたが、最初に行う「文字を作り出す接点の円盤を作り出す作業」の面倒くささにうんざりすることになります。

それは、ギヤ、つまり歯車の頭を仕様書どおりに削ったり、残したり、ヤスリでゴシゴシ取り去っていく作業なのですが、タイプライターの鍵盤の数、76余り必要で、それを5台も作ったら、もう疲れきってしまいます。

まともにヤスリで、手作業で削る以外の良い方法はないものか…?
さっそく父は持ち前の発想力で、簡単に解決する方法を独自に編み出しました。

足踏み式シィーア(剪断機-せんだんき)に自分で作った回転冶具を取りつけ、残す歯車の頭には赤いペンキで目印をつけておいて、あとはスパスパとシィーアで取り去り、ほとんどヤスリは使わずに、2、3日で作業を終了させてしまったのです。

父は言われたままコツコツ仕事をしていればいい、と思う人間ではなく、こんなに面倒で時間をくって手が痛くなる仕事は、効率が悪いから別の手段はないかな、とすぐに考えてしまう人なのでした。(私もそれは受け継いでいる気がします笑)

7月に組み立て、調整を開始した鍵盤模写電信機は、9月に試作が完成しました。
その後、逓信省、中央電信局、運輸省、その他朝日新聞社などにデモを見せにいきました。

なかでも運輸省は非常に熱心で、遠距離通信での性能が知りたいということから、最初は東京と大宮間のテストでしたが、次第に名古屋へ、金沢へと範囲を広げて通信のテストを行っていきました。

父はこれらの実際のテストを行う作業員として、プロジェクトの陣頭指揮を執る盛田昭夫さんと共に、全国各地に赴いていったのです。