公開日 : 2017/09/13 | 更新日 : 2017/09/28

20歳:今を生きる面白さに目覚める|運命の出会い

20歳は、私は大学2年だったのに対し、父は専門部3年で就職活動をしていた年齢です。

私(1993年/平成5年) | 父(1946年/昭和21年) 私(1993年/平成5年)
父(1946年/昭和21年)

私(1993年/平成5年)

理系家族で、ひとり何系?

20歳のこの年、私は1年浪人してから女子大学の国文学部に入学していたので、大学2年生になっていました。

父はもちろん、母も、兄二人も揃って理系学部卒業の理系一家だったのに、私一人、文系学部。
もともと機械仕掛けのものが好きだったり、のちにプログラマーになっているので、私の中にも理系の血は当然流れていたとは思うのですが、中学高校の授業でどうにも理数の面白さに目覚めなかったんですね。

まあ正直、理数のというよりも、どの学問の面白さにも目覚めなかったので、高校の成績は学内最低レベル。
当時は勉強する意味が全くわかっていなかったのです。

今思うと、その頃の私は、将来何をしたいのか、自分が何が好きなのか、そもそもこの世にいる意味も全くわかっていない真っ白無垢な状態でした。

そんな心ここにあらずな私を母はずいぶん心配したようで、持ち前の研究魂に火をつけて研究しつくし、当時の様々な科学的理論、例えば、トランスパーソナル心理学やシルバマインドコントロールなどで心理学テストや潜在能力開発訓練などを受けた覚えがあります。
でも結局、私のどこがおかしくて、どうやったら直るのかがつかみきれず、母は別の分野に答えを求めていきました。

私は特に文学部に進みたかったわけでもなかったのですが、1年浪人して受かったのが文学部のみだったという消極的な選択で女子大学に進学しました。

生きること、学ぶことの面白さに目覚めた大学時代

大学では、やることなすこと新鮮で、とにかく楽しい日々でした。
生きることの面白さに目覚めて、はじけまくりました。
当時の友人知人からは「イリオモテヤマネコ」、珍獣、天然記念物などと呼ばれていましたが、さもありなん。
周りの人にとって当然のことを知らないし、妙なことにキラキラ目を輝かせて楽しむので、相当変わり者だったと思います。

大学に入ってから学ぶことの楽しさを知ったため、中高でさんざん勉強してもう飽きてしまったかのような女学生達の中で、最前列で授業を聴く毎日。
勉強というのは本来、教えられて無理やり覚えて、というものではなく、自発的に考えて好きなことを調べていいんだ、とようやく気づいたのです。

私が通っていたのは国文学部国文学科だったのですが、2年生になった頃には特に言語学と情報学にハマりました。
ソシュールなどの言語学を学んでいくうちに、特にチョムスキーの普遍的な言語という考え方に影響を受け、その後3年生で日本独自の言語学である国学に興味が移っていきました。

最終的には4年では飽きたらず、科目等履修生となって、情報サービスや情報資料を学び、司書の資格を取得しました。

情報を集める、検索する達人になりたい!

この頃に知ったVannevar Bushの「As We May Think」の論文や、Manholeというゲームソフトに感動し、この論文やゲームのように、心のおもむくままに、情報を取得できたらどんなにいいだろう!と考えたものです。
今のように、知りたいことを検索して、情報をクリックして辿って見つける、などという素晴らしい状況は空想の世界でしかなかった時代で、司書や情報資料の勉強といえば、カードの書き方、配置、分類の仕方が主でした。

レファレンスサービスの勉強もし、将来は、世に散らばった大量の情報をうまくまとめて、わかりやすく整理し、必要としている人のもとに届ける専門家になりたい、と思っていました。

あれから20数年。その思いは、埋もれた絶版本を必要としている人のもとに届け続けたい!という今の考えに通じるかもしれませんね。

父(1946年/昭和21年)

趣味が身を助け、運命の出会いにつながる

父が在籍した大学は、早稲田大学専門部工科機械科。
3年制の学部で、終戦1年前の昭和19年に入学し、3年後の昭和22年に卒業しました。

戦後すぐに父親を亡くし、昭和21年2月16日に行われた「新円切り替え」のせいで、亡き父親の退職金など所持していたお金の値打ちが無に等しくなってしまった父は、生活のためにアルバイトをしながら学生生活を送らねばならなくなりました。

はじめは引っ越しの手伝いや清掃員のような仕事をしていたのですが、ある時ラジオを欲しがっている人がいるというので作ってあげたところ、口コミで注文が殺到。
部品の買い出しで神田、今でいう秋葉原に足繁く通うようになります。

売れるラジオや電気蓄音機を製作するには作品の見栄えも大切で、父はある会社のダイアル表示装置を好んで使っていました。
その会社の名は、東京通信工業株式会社。のちに父が入社する会社です。

就職活動の際、当初は日本電気、日本無線、東芝などの大手に就職しようと考えていました。
神田で見慣れた名前を無意識に選んでいたのですが、これらはすべて電気の会社。
専門であるはずの機械の会社に入ろうとは考えていなかったようです。

そんなある日。
父は学校の廊下の掲示板に貼られた、ある学生募集要項に興味を惹かれます。

「学生を求む 井深大 東京通信工業株式会社」

井深さんは、早稲田の非常勤講師としてときどき講義に来ていました。
機械屋なのに電気好きな父は、電気関係の講義があるとこっそり聴講していました。
井深さんの講義は3回ほど聴講し、他の方と違って現実的な話なのでわかりやすくて面白いと記憶していたのです。

その井深さんが、愛用していたダイアル表示装置を製造している会社と関係がある。。。

これはぜひ訪問して東京通信工業がどのような会社か見ておきたいものだ、と、すぐに学校と相談し、履歴書と願書、そして紹介状を用意し、その数日後に会社訪問することにしました。

学校の掲示板にはたくさんの募集があったはずなのに、それらは全然目に入らなかったくらい、運命的な出会いだったようです。

父を亡くし、無一文になるというのはとても不幸なことだと思うのですが、その経験がなければ巡りあえなかったであろう繋がりとその後の展開を思うと、むしろ幸運だったのではないか?と思えてしまいます。
そんな展開に持っていってしまう力はどこから生まれるのでしょうね。

私が敬愛する水木しげるさんにも通じるところがあると感じるのですが、不運をものともしない一直線さというか。
ブレずに自分らしさを貫き続けることで、その展開を引き寄せるのでしょうか。

まさに「学歴無用論」!

入社試験の日。
品川駅から御殿山の会社に行こうとするのですが、いくら探してもそれらしき会社が見つかりません。
探しあぐねて通行人に聞くと、「あの家の裏ですよ」と教えてくれたのですが、見ると想像していた規模の10分の1もない、小さな小さな木造小屋の工場でした。

父は、親戚の経営する木原鋳造所という工場よりは大きいだろうと思っていたのですが、東京通信工業はそこの半分もない大きさだったのです。
(今のソニーからは想像つかないですね~)

父の入社面接の試験官は樋口晃さん。のちにソニー副社長になられた方です。
履歴書を見ながらいろいろ質問されましたが、開口一番、
「君は機械屋なのに、ここに書いてあることは、ラジオが作れるとか電蓄を組んだことがあるとか、みんな電気のことばかりだね。面白い人だね」
と、言われたそうです。

「私は電気の機械をいじるのが好きなんです」とかなんとか言ってその場を切り抜けたのですが、「あの履歴書は変だったかなあ」と反省しきりでしたから、数日後採用通知を受け取ったときはホッとしたようです。

「本採用になる前に、時々遊びに来なさいよ」と言われ、学校の暇なときにはたびたび訪問し、井深さんにも会うことができました。

そのうちに東京通信工業の仕事内容も研究方針も知ることができるようになり、なかなか面白い仕事をやらせてもらえそうな会社だなと思いはじめ、「よし、他の大会社に就職するより、ここでしばらく様子を見るか」と、東京通信工業株式会社に就職することを決心したのでした。

父は4年制大学卒業者ではないし、得意分野も専門部で学んできたもの、履歴書に書いてある学歴とは違うものでした。
それでも能力があると判断され、採用となったわけです。
もし学歴重視、履歴書重視だったら、真っ先に不採用だったかもしれない父が、後に会社とっていなくてはならない存在となれたのは面白い事実です。