公開日 : 2017/07/14 | 更新日 : 2017/09/03

0歳:生い立ち

私はいったい何者なのか、なぜ起業し、どうして「名著復刊プロジェクト」を始めようと考えたのか。
それを、父との人生の対比で書き進めていこうかと思います。
時代は違えども、技術を愛する心は同じ!
同じ年齢で一体どんなことを考え、行動していたのか、思い出と共に辿ってみることで、何か面白いことになりそうな予感。
拙い文章ですが、読んで一緒に面白がっていただけたら幸いです。

私(1973年/昭和48年) | 父(1926年/大正15年) 私(1973年/昭和48年)
父(1926年/大正15年)

私(1973年/昭和48年)

生い立ち

私は、1973年の正月、東京で生まれました。
初詣の帰りに急に産気づき、お医者さんに連絡するも、みんな正月でお酒を飲んでいて大変だったのよ~、と母によく言われたものです。

3300gと少し大きめに生まれてきたものの、高校2年生くらいまではクラスで一番小さい方で、おとなしく、一人で遊ぶのが好きな子供だったようです。

父母と8歳と6歳離れた兄二人の5人家族。
父が48歳の時の子供で、孫のような存在で娘一人だったため、とても可愛がられていたようです。

そうはいっても、あまり多くを語ったり、感情を出したりするような父ではなかったため、面と向かって可愛がられたり褒められた記憶はほとんどなかったりします。

生まれついての技術好き

昔から機械をいじるのが大好きで、誰に言うわけでもないのに周りからも得意そうに見られていました。
実際、壊れた機械を直すのが苦ではなく、感覚でどう直せばいいのかわかったり、説明書を読まなくてもどう使えばいいのかわかったりする、父譲りで便利な能力が備わっていたような気がします。
それゆえ、学生時代には「キハラ~これ直して~」と結構便利に使われていました笑

そうはいっても、自発的に機械を分解したり組み立てたり、作品を作り出すというところまではいかずに、もっぱら江戸のからくりやオートマタといった機械仕掛けを見に、博物館に行ったりする程度でした。

大江戸からくり人形

あのからくり人形が作れるなんて、画期的な商品です。

ちなみに江戸のからくり技巧などは、父も大好きだったようで「大人の科学シリーズ8 大江戸からくり人形」を購入して組み立てている様子を見て、血は争えないな~と思いました。

 

大人の科学マガジン vol.23

こちらも面白い商品です。

さらに、大人の科学つながりですが、父は「大人の科学マガジン Vol.23 ポールセンの針金録音機 (Gakken Mook)」」にインタビューで掲載されています!

モノづくりが許されていた家庭

機械作品は作らなかったものの、モノづくりは大好きで、クッションを作ったり、セーターを編んだり、時間を忘れて制作に没頭した覚えがあります。

その他にも思い返してみると、我が家は創作すること、空想することに関してはかなり理解がある家庭だったと思います。
例えば小さい頃、何を思ったか、風船に水を入れて顔を書いて「この子を育てる!」と一時期育てていたことがあります。
お風呂に入るのも、寝るのも一緒。
寝ている間によく割れなかったなと思いますが笑
何度かお風呂の中で一緒にお湯につかり、オレンジ洗剤で丁寧に洗ってあげたせいで割れてしまうまで、ずいぶん可愛がっていたように記憶しています。

それから、リビングルームにあるカーテンと椅子など使って自分だけの秘密基地を作ったこともありました。
食事を食べるのもそこに持ち込んで1人で過ごしていました。
記憶に残っているくらいなので、しばらくの間はこの生活を続けていたんだと思います。
特に怒られもせずにこんなことを好きにさせてもらえていたのは、今思うと変わった家庭だったのかもしれません。

他にも、幼い頃にプロの絵本作家による絵画教室に行かせてもらったり、はんだこてなどの道具が普通に使える状態で家に置いてあったりと、自分で空想してモノを描いたり、創作することに抵抗がなく育てられたのが無意識に今の私に生きているのかなと思います。

父(1926年/大正15年)

生い立ち

父は1人っ子で、20歳で父親を亡くすまで、母親と3人暮らしでした。

父親が日本郵船株式会社に勤めていて、父が幼い頃は主に南洋航路や太平洋航路の配船、貨物の運用計画などを担当してました。
当時の日本郵船は、豪華客船に乗って海外に渡航できる憧れの会社だったようで、父も3歳頃から7歳までに3回船旅を経験したそうです。

昭和初期の良き時代に、父親は平均的サラリーマンよりは相当に贅沢な暮らしをしていて、家庭においてはよき父親だったとのことです。
ただ、贅沢な暮らしができたのは戦前までで、戦中は持ち物の多くを没収され、東京大空襲で家が焼け、終戦直後に父親が亡くなり、退職金のお金も新円切り替えのタイミングと重なり、値打ちが無に等しくなってしまったそうです。

天才といわれつづけた人生

私は父から直接聞いたわけではないのですが、母親(私の祖母)から溺愛されていて、ずーっと「この子は天才だから。世の中のためになる子だから。」と言われ続けていたそうです。
それほど親から信奉され、幼い頃から自分が自分のままでいることを認められていたら、その後いかんなく才能を発揮するのも無理はないことだなと思います。

父の結婚式の時に、井深さんや盛田さんがスピーチで「木原くんは金の卵を産む雄鶏だから。」と何度も言われたそうです。

23歳でテープ式磁気録音機の試作に成功し、日本最初のテープレコーダー「G型」の開発が24歳の時と相当若い時の話なので、確かに何かをもっていたのかもしれません。

手先が器用

父は、手先が天才的に器用だったようです。
単に器用なだけではなく、例えば砥石の使い方などは職人技のような領域にまで達していたようで、父親から教わっていたおかげで包丁や鉋の歯を砥ぐくらいは朝飯前で、砥ぐときには砥石と金物の歯との擦れる「音」を聞きながら、歯を立てる角度を一定に保って砥ぐワザを会得していたそうです。